1972年5月15日 今年も 沖縄が
祖国に復帰した記念日が 近づいてくる
佐藤総理大臣や
屋良知事を映し出すTV
万歳三唱の響きを覚えている
小さかったあの頃 遠く昔のできごとのようでもあるが
私たちの歩いてきた道は この国の歴史の一部
それを消してしまおうとする力
消されまいとする記憶
当時 小学生だった私の目から見聞きした 日記の中で
いつかひとつひとつのこと掘り下げて考えてみたい
キーワード?をその日のためにメモする作業を始めます
テーマは「私の記憶(仮)」がいいかな
私は1965年生まれ 那覇市小禄というところで育った
沖縄線の激戦地のひとつ
日本海軍司令部壕跡地側
小学校はその一角の山を削ってつくったために
学校の運動場はあちこち穴だらけ 防空壕のあとだ
私たちの当時の遊びは
ガマ(壕)探検
中学校のころに行った 赤嶺地区のガマが一番長かった。
あちこちに骨らしきものが残っていた.
銃弾や機銃弾なんかは 工事のあとでは たくさんみつけて
なんか宝物のようにもっていた
小学校のそばには 1,5Mくらいの
不発弾がそのままあって
登下校のたびに その上にのって 案山子のようにバランスをとって
なんか肝試しのようなことしてた
不発弾の記憶はたくさんあって、、中でも大きさの一番は
小学校の裏道周囲のサトウキビ畑でみつかったのは
円形で大きかった。日本軍の対戦車用の地雷だとだれかに
聞かされた。土嚢が積まれるまではその大きさがよく
みえた。。しかも処理されるまで時間がかかっていて
登下校の小学生は石を投げて、これも肝試ししていた。。。
私も届かないように、小さな石を投げたら カーンと高い音がして
走ってみんなで逃げた。。
学校では、兵隊と看護婦の幽霊がでるという噂がとても
怖かった。
小学校の校長は誰よりの早く登校して清掃していたが
いつも線香をたいて 運動場に塩をもっていた。
クラスには毎年10名くらい、自衛隊の親を持つ同級生がいて
平和学習の時間はつらそうだった
学校の先生からはガマで遊ぶのは 崩れると危険だから
やめなさいとよく注意されていた
「こじきの日」というのが小学生の間ではあって その日は
どこまで歩いたか記憶にないが、、外国人の人から お菓子をたくさん
もらえた。学校の朝礼で「こじきみたいだからやめなさい」と言われた
あれは、
ドルから円に変更になったとき、硬貨に穴があいているのがショックだった
弟は「これは使えない」とすてていた。
私はめずらしくて、使わずに5円玉を駒紐に通して集めていた。
琉球の地図と日本の地図の区別がつかなかった
近くの保育園で不発弾が爆発して、大勢が死傷した。
屋根がふきとんでいた。。不発弾の怖さを知って恐ろしかった
不謹慎なことに、「学校に爆弾をしかけた」というイタズラ電話が流行した
そのたび学校は休校となった
学校を休んで?日の丸をふって皇太子を歓迎にいった
そのあと、火炎瓶をなげられ おおきな騒ぎになっていたが
よく意味がわからなった。。
公民館や広場で映画上映 赤影なんかがやっていた。。
月に一度 映画券を2枚 学校の先生が配ばってくれたが
いつもきまった人に渡してた。。
1年生の時かな、アメリカから筆箱や、下敷き、鉛筆などの
文房具の支給があった。
スマイリーの下敷きが人気だったような。
大阪万博にでかけるのにパスポートをつくった
母子手帳に血液型A型とある。20年後、輸血する際にO型と判明。。
その他の強烈な印象にあるもの
(友達の話)
・拳銃をひろって小学校の教室に持ち込み 友達が警察に連行されていった